百十代後光明天皇の代に、美濃の国の御嶋村というところに、善入という修行僧がおりました。
ある時善入が、仲間の修行僧三人と共に諸国の霊場を行脚している道中に、越中国の立山に詣でようと立山に向かい、その山麓の宿に一泊する事にしました。
その晩のこと、善入の夢の中に高貴な僧侶が現れ、善入にこうお話をされました。
「私は、この山の地獄谷というところで、長い間沢山の人々を苦しみから救ってきました。そこでこれからはこの地を離れ、貴方に同行してもっと多くの世の中の人々を救いたいと思います。明日から私を連れて行脚しなさい。」
次の朝、善入は昨晩の不思議な夢の話を仲間の修行僧達に語り、夢で会った高僧を探すため地獄谷に向かいました。
地獄谷の焦熱地獄と言われるところに辿り着いた時、突然煙の中から眩いばかりの光が輝き、その光の中から地蔵菩薩が出現されました。
善入は「昨晩の高僧はこの地蔵菩薩様であったか」と、この尊い像を大事にお持ちになり、その尊像と共に諸国を巡りって修行を続け、最後に尾張の国に庵を建立され、その庵にその尊像を安置されました。
この話を聞いて、その地蔵菩薩を詣でる人々が日増しに増え、いつしかこの話が尾張藩主第二代徳川光友郷のお耳にも入り、光友郷も城中より地蔵菩薩にお祈りをしたところ、たちまちその願いが叶ってしまいました。そこで光友郷は、国家の安全、徳川家の繁栄の守護仏としてその地蔵菩薩を名古屋城内にお迎えしました。
しかしやはりこのご利益を尾張国の人々にも分けるべきだと考え、光友郷は元禄十四年七月二十四日、寺社監司の土屋庄左衛門に命じて城内より地蔵菩薩を徳川家の祈願寺である当山に運ばせ、当山のご本尊としました。
その時から、当山は「矢場地蔵尊」と称し、家内繁栄、延命長寿、交通安全などの守護仏として全国の善男善女から信仰され、その願いが良く叶う為に参拝者も絶える事がなく、現在に至っております。